NHKアニメ「へうげもの」 [NHKアニメ]


へうげもの Blu-ray BOX 1(Blu-ray Disc)

どうやら原作者はこのアニメ化についてあまり気に入っていないらしく、まぁそれはどうやら原作からの脚色について少々納得がいかないというのがネットでの大筋の意見らしいです。
まぁそれはそれとしても非常に面白いものだったと思った。
というか普段小説のレビューしか書かないのにこんなんしていいんかと思うのですか、まぁいいじゃん。そう自分に言い聞かせる。

物語は戦国時代、或いは安土桃山か、正直私は歴史にそこまで詳しくなく、この戦国時代と安土桃山時代の境界というのが今一つ理解していないのですが、まぁいわゆる戦国アニメと思っていただければよいのかと思います。けれども「いわゆる」というのはやはりあまりに失礼で、この物語の最も他の時代モノ作品と異するところは「日本数寄」を物語のテーマとして選んでいることです。
「数寄」というのは「好き」の当て字から由来するものらしく、室町時代頃にこの言葉が使われ始め、当初は短歌文化について言われていたらしいのですが、戦国時代には富裕層による「茶の湯」文化の繁栄から、こちらに意味がシフトしていったとか。
物語は千利休(物語序盤では千宗易)と古田織部正重然(フルタオリベノカミシゲナリと読み、豊臣秀吉から官位を授かるまでは古田佐助、通称フルサと呼ばれていた)を中心に描かれていく。主人公は古田。

この物語において重要なのはいくつかに分かれていると言える。特に毎回次回予告の最後の決め台詞として「武か数寄か、それが問題にて候」といわれるほど、この物語はもっぱら武将としての出世欲と、数寄者としての物欲の間隙にて葛藤する様が描かれている。それは根底にあるテーマとして終盤まで描かれているのだが、それを最もたる主題として置いているのは全三十九話中の1クール目(概ね織田信長暗殺あたりまで)くらいまでである。
2クール目は数寄についてひたすら描きだしている。古田の侘びへの執着心、利休の侘びの境地への経緯などがかなり濃厚に描きだされ、非常に見ごたえがあった。古田は己自身が見出す侘びによって過ぎたることをしでかし、それを利休に看破され、途中で二人の関係は離れるのだが、2クール目が終わる頃にそれはしっかりとお互い帰着点を見出し、仲を取り戻した。
1クール目は「武と数寄」、2クール目は「数寄」ときた。これはやはりこの話がただの戦国時代モノではなく、他との区別が可能な物語として成立するためにはやはり「数寄」寄りな物語として構成しているのだろう、と私は思った。この時代の「数寄」の重要性を作品として前面に表現するための構成であると思われる。恐らく、原作ではさらに「数寄」に重きを置いているのだろう。

そして3クール目である。ここでは随分とテーマが変化する。それは「業」である。特に利休の「業」について描かれている。ここでいう「業」は罪や我欲に対する背徳的な意味で用いる。
いまさらだが、この「へうげもの」、歴史に遵守するものではなく、作者による創作がかなり多く入っているらしい。
この物語の最も問題なのは、本能寺の変の作者による創作である。歴史では明智光秀謀反ということになっているが、この物語では、明智光秀は豊臣秀吉の巧妙な策略により騙し打ちにされた、という設定なのである。つまり主犯は秀吉ということ。この解釈は恐らく既に歴史研究家による一説なのだろう。たぶん。
この時、秀吉と利休はタッグを組んで信長を暗殺した。二人とも最終話まで本能寺の変に関する業によって苦しむ様が描かれている。
その終着として描かれるのは利休のみである。秀吉は最後に利休の一番弟子である古田に介錯を任せた。今まで業を共にした利休を殺し、その代わりに古田を生かし介錯をさせることで利休の代用としたのである。これについて秀吉は苦肉の策だったろう。それが最終話である。

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PSVita「GRAVITY DAZE 重力的眩暈:上層への帰還において、彼女の内宇宙に生じた摂動」 [PSVita]


GRAVITY DAZE 重力的眩暈:上層への帰還において、彼女の内宇宙に生じた摂動

あまりにもタイトルが長いのでAmazonからタイトルをコピペしてきたわけですが、このタイトルの説明をしておこう。
GRAVITY:重力
DAZE:目をくらます、幻惑、目眩(眩暈)
GRAVITY DAZEというタイトルを漢字(中国語?)にしたものがそのまんま重力的眩暈、ということみたいで。
サブタイトルの「上層への帰還において、彼女の内宇宙に生じた摂動」はネタバレを含んでいるようです。特に「上層への帰還において」というのはゲームシナリオの根幹をちょびっと語っているので、どうなのかなぁ、というアレもあります。「彼女の内宇宙に生じた摂動」は要するに「彼女の心が動いた」ってことですね。まぁ、わりとどうでもいいです。

箱庭ゲームの最高形態
主にニンテンドー64やプレイステーションなどの世代からポリゴンを駆使した仮想現実空間がゲームに応用され始め、そこから新しいゲーム性がいつの間にか誕生していたように思える。
いわずもがな、「スーパーマリオ64」のことである。
実際ポリゴン技術はスーパーファミコンの頃から使われることもあったが、ゲームに本格的に応用され始めるのはまさにこのマリオ64が初めだろう。或いはゲームセンターの「バーチャファイター」か。奥行きのある空間を活かすためにマリオ64が採用したのは従来のシステムとは異なる「箱庭方式」だった。プレイヤーは自由にステージを選ぶことができ、その空間を自由に冒険できる。
これに追随するゲームはこの後も他機種で発売された。そして、マシンの性能が向上するに従って、ハイラル平原のように箱庭もどんどん広くなっていく。
ここでいう「広く」とはどういうことか? その答えを示した一つの結論が「ワンダと巨像」ではないかと思う。GRAVITY DAZEと同じJAPAN STUDIO制作のゲームである。このゲームはほぼ完全シームレスであり、複数の箱庭を行き来するのではなく、一つの馬鹿みたいに大きな箱庭をあちこち行ったり来たりするのだ。広さで言えば、「ゼルダの伝説 風のタクト」でも、大海を航海する感動が未だに私は忘れられない。
縦横に広がる果てしない空間を行き来するゲームが可能になって、そしてこの「GRAVITY DAZE」はその延長線上にあるゲームだろう。「縦横」からさらに「上下」の概念を投入したこのゲームはとにかく広い空間を飛びまわることができる。無論、「ワンダと巨像」で培われたシームレスなゲームデザインの経験が「GRAVITY DAZE」でも活かされている。

GRAVITY DAZE的構造設計
ここでこの三次元的なゲーム性を活かすためにどのようなゲームデザインが必要なのか。その結論がこのいわゆる「空中都市」である。大地のない空中ではステージの下も上も行き放題というわけである。
街の設計に関しても舌を巻くものがある。今までのゲームが平面的な奥行きだったのに対し、このゲームが採用したのは「重層的設計」である。つまり、平面的なステージを何層にも重ねることによってこのゲームアクションに必要で最適な空間を作り出している。どれほどの人が連想するかはわからないが、中国にかつてあった「九龍城砦」に近い感動を覚える街並みだ。
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ちなみに攻殻機動隊などのアニメでもこのスラムはモデルにされている。
では、こういった設計がプレイヤーにどのような影響をもたらすか?
重層的な建造物は現実世界にもいくらでもあるが(ビルとか)、それらが一繋がりの空間であることを意識することは少ないはずだ。意識する数少ない例として、デパートの吹き抜け的な設計である。それを見上げて、上に落ちそうになった感覚を感じた経験は無いだろうか? あまりにも高すぎて、眩暈を感じてしまう。それがまさにこのタイトルの由縁であり、プレイヤーに感じてほしいテーマなのだろう。
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